2007年【卯月号】
vol.78

 春四月、西公園は一面桜に覆われて、花見客でいっぱいです。現在は博多湾の埋め立てが進み、ずいぶんイメージが違いますが、昔は博多湾に突き出た高さ50メートルほどの風光明媚な小丘で、「荒戸山」「荒津山」とも「高照山」ともよばれていました。江戸時代、この山に徳川家康を祀る壮麗な東照宮があったことをご存じでしょうか。
 二代藩主黒田忠之は、筆頭家老栗山大膳との対立からおこった黒田騒動の当事者でした。この騒動によって栗山大膳は盛岡南部藩におあずけの身となりましたが、黒田家には何のお咎めもなく、幕府の権力を背景に藩主権力は維持・強化される結果となりました。そのため忠之は幕府への忠誠をいっそう明確に示していく必要に迫られたのです。そのことを示す行動のひとつが、東照宮の建立でした。
 荒戸山東照宮は、慶安三年(1650)から建設に着手し、承応元年(1652)に完成しました。当時は樹々が鬱蒼と繁る中に長い坂道に続く石段があり、その奥、見あげるような石段の上に、神殿・拝殿・玉垣瑞垣・唐門・神厨・宝蔵など、尊厳なたたずまいの御社がありました。側には、東照宮の祭祀を司るため、比叡山から招いた豪光法師によって開かれた高照山松源院福祥寺という寺がありましたが、これもまた壮麗をきわめていました。
  ご神体の、徳川家康の姿を写した「東照大権現座像」は、慶安三年、忠之が東叡山(上野寛永寺)で開眼し、社殿の完成に合わせて、数人の家臣が江戸までお迎えに行き、大坂からは「三光丸」という新造船に乗せて運びました。船が博多湾にはいると、忠之は船に乗って出迎え、供奉しました。5月17日、ご神体を神殿に納め御遷宮の儀式が厳重に行われました。
 その後、毎月17日には藩主自ら参拝し、年ごとの4月17日の祭礼には、筑前国中の老若男女が挙ってお参りし、隣国からも多くの参拝者が訪れました。
 しかし明治維新を迎えると、幕府を崇敬する施設として廃社になり、壮麗を誇った社殿も仏堂も姿を消してしまいました。立派な厨子に納められたご神体は、警固神社に移され、百年の時を経てこの度、福岡市の文化財に指定されました。


筑前名所図会 巻一 福岡 荒戸山東照宮図 その三(福岡市博物館所蔵)
【難波津の春】
 春になると、難波の四天王寺の名物、聖霊会を思い出します。聖霊会とは、4月22日の太子の命日に執り行われる舞楽法要のこと。雅楽は大陸伝来の芸能ですが、日本で作曲されたものもあり、童舞の「胡蝶」などもそのうちの一つです。
 私が訪れたとき、聖霊会の野外舞台ではちょうどその「胡蝶」がかけられていました。春風の中で舞う子どもたちのかわいらしい姿が、とても印象的でした。
 今では繁華街のなかに埋もれている四天王寺ですが、往時は難波津に臨み、ゆきかう船を見下ろしていたそうです。西方極楽浄土を意識して建立された伽藍、その金堂には観音、勢至の両菩薩を脇侍に従えた阿弥陀三尊が安置され、西を向いて並んでいました。
 九州からやってくる船は、難波に近づくにつれ、西日を受けて輝く四天王寺の伽藍がはっきり見えてきたことでしょう。そして、九州に向かう船は、四天王寺の阿弥陀三尊の慈眼に見送られ、筑紫の海を目指したことでしょう。

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