2006年【皐月号】
vol.67

 九州一の歓楽街中洲。その明治通り沿いにある「魚魚(とと)や」の入ったビル松居壹番館の東側、隣のビルとの僅かな隙間に「福岡藩精錬所跡(ふくおかはんせいれんしょあと)」と書いた石碑が建っています。福岡藩精錬所は幕末の弘化四年(一八四七)に、福岡藩最後の殿様黒田長溥(ながひろ)の命によって造られた理化学研究所で、現在の松居壹番館・東京第一ホテル一帯に敷地がありました。
 黒田長溥は「蘭癖(らんぺき)大名」と噂されたくらい、西洋の知識・技術を取り入れることに熱心な殿様でした。長溥は藩内の有能な人材を、家柄や出身に関係なく抜擢して、長崎などに派遣し、西洋の科学技術や医学を学ばせ、精錬所で実験や製作をさせました。  鉄砲鍛冶の小島伝平・鋳物師(いもじ)の磯野七平・大工の津田又市などに鉄砲や機械、古川俊藏に写真術、永野円助に時計、小川宇平にガラスの製造技術を研究させました。こうして長崎で新技術を習得した人たちが、精錬所で働き、技術を伝授し、武器・ガラス・陶器・青貝細工・製薬・写真・時計・博多織などの製品がつくられました。これらは精錬所の経費をまかなうために販売されましたが、大変な人気を博しました。
 ガラス技術を学んだ小川は、放生会のチャンポンをつくったといわれ、藩主長溥自身も、ここで行われた石炭の分析などもふまえて、幕府高官や諸侯の間でも有名なほど、石炭に関する知識が豊富だったと伝えられています。また精錬所には、長崎でオランダ人の指導で造った蒸気機関車も据え付けられていました。福岡藩と交代で長崎警備を務めた佐賀藩でも、藩主鍋島直正が精錬所を建設し、そこに莫大な経費を投入して反射炉を築き鋼砲を製造しています。これは全国的にも画期的な事でした。
 精錬所ができる前の中洲の様子を見てみますと、博多と福岡を結ぶメインストリートに沿った中島町は賑わいを見せていましたが、それより北は「北の新地」あるいは「浜新地」、南は「岡新地」あるいは「中洲畠」とよばれた耕作地でした。そんな岡の新地に突如現れた精錬所。博多の文明開化はまさに此処に始まったと言えましょう。

「福岡藩精錬所跡」石碑
【初鰹】
 俳人山口素堂が、「目には青葉山ほととぎす初鰹」という句を詠んだのは、江戸中期。初鰹は、江戸の人々にこよなく愛された、この季節の代表的な食べ物です。  鰹は季節とともに海をめぐる硬骨魚で、南の暖かい海に生まれ、フィリピン沖から黒潮に乗って太平洋沖にやってきます。春先には駿河湾沖でイワシを餌に丸々太り、五月ごろ、静岡県や千葉県などの漁港に水揚げされるのが、いわゆる「初鰹」です。  この時期の鰹を「初鰹」と呼んで珍重するようになったのは江戸時代から。初物にことさらうるさかった江戸っ子たちは、「初物を食うと七十五日長生きする」といってナス、キュウリにいたるまで初物食いに夢中だったといいます。中でも初鰹は、「七十五日」の十倍に当たる「七五〇日」も長生きできるともてはやされていたそうです。
 「女房を質に入れてでも食べたい初鰹」などという、江戸っ子の意気込みを表した言葉も生まれたほど、初鰹は江戸の初夏の味を代表する風物なのです。

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