2006年【水無月号】
vol.68

 現在の上呉服町、石堂川にかかる西門橋に連なる通りには、西門町・中小路・魚町がありました。上魚町の通りに面した所、お食事の店の横に「参拝入口」と書いた半間ほどの扉があり、その上に、赤い衣に青い袈裟(けさ)をつけた大きなお地蔵様が描かれています。その両側には「葛城地蔵大菩薩」・「将軍地蔵大菩薩」と書いてあります。
 扉を開けると、狭い路地の奥に献灯の提灯が並び、格子戸の中に、左に馬に乗った勇壮なお地蔵様、右に立ち姿の柔和なお地蔵様が祀(まつ)られています。馬に乗ったのは将軍地蔵、立像は葛城地蔵です。三〇センチほどの小ぶりのお地蔵様ですが、色も鮮やかで大切にお祀りされていることがうかがえます。
 葛城地蔵尊は、延喜年中(九〇一〜九二三)地中より発見された梵字(ぼんじ)の彫刻のある石を、当時は浜辺の清らかな地であった冷泉津の富士見坂(糸島富士が見える場所)を選地して地蔵尊としてまつったと伝えられています。宝満山伏(ほうまんやまぶし)が鎮護(ちんご)国家のため春行う峰入(みねいり)を葛城入峰(にゅうぶ)と言いましたが、このとき必ずこの地で法華経をよむ霊場になり、そのため「葛城地蔵」の名を称するようになったといいます。
 将軍地蔵は天文の頃(一五三二〜一五五五)早良郡荒平城主亀井加賀守が博多津に疫病が流行った時、熊野権現(ごんげん)を勧請(かんじょう)し悪魔退散の祈祷を行い、後に強い神将軍地蔵として葛城地蔵に合祭(ごうさい)されました。
 葛城地蔵の本尊は石に梵字を彫っただけのものでしたので、後に参拝者の信仰を得るために、本尊の前に地蔵像を彫刻して安置しました。厨子(ずし)の下には石の塔婆(とうば)が多数重なり、中に五輪塔の破片十五個、石塔の砕けたもの十個ほどが納められているそうです。
 このお地蔵様のおかげで、この町には大火事があったことはなく、B29の空襲でも、戦火は手前で止まり、この町は焼け残りました。出征した町の青年三〇名も一人残らず無事帰還し、交通事故で亡くなった人もこの町にはいない。そういうことで、「生き残り地蔵」ともいわれています。
 すっかり様変わりした街の片隅で、二躰(にたい)のお地蔵様は、遠い昔を、そしてこの街の人々のゆかしい心意気を、しずかに物語っています。


「将軍地蔵大菩薩(しょうぐんじぞうだいぼさつ)」(向かって左)・「葛城地蔵大菩薩(かつらぎじぞうだいぼさつ)」(向かって右)
【梅ジュース】
 妊娠した同僚の体調を気遣って、職場の年配の女性が梅ジュースを作ってきたことがありました。甘く、ほのかな酸っぱさが身に沁みるその飲み物は、仕事の手を休めて話に加わってきた若いスタッフたちにも大好評でした。
 梅がからだに「効く」のは、梅に含まれるクエン酸がポイントだといわれます。クエン酸は、新陳代謝を活発にし、老廃物を体外に排泄する働きがあるからだそうです。また、殺菌効果や整腸作用、肝機能を高める効果もあるので、自然が作り出した「万能サプリメント」といわれることもあります。
 中国から日本に梅がやってきたのは、奈良時代よりも少し前。この長い歴史を通じ、梅は様ざまに手を加えられ、日本人のからだを慈しむ特効薬として用いられてきました。
 実がころころと太った六月になると、あちこちで梅ちぎりの風景を目にします。そのたびにあの時の手作り梅ジュースを思い出し、ほのぼのとした記憶に喉もとが恋しくなってしまうのです。

Copyright(C) 2002-2006 Ishimuramanseido Co.,Ltd. All rights reserved

            |前項歳時記TOP次項