2006年【卯月号】
vol.66

 緒方洪庵の適塾といえば、福沢諭吉・大村益次郎(ますじろう)・佐野常民(つねたみ)・橋本左内(さない)・大鳥圭介ら、幕末・明治維新期に活躍した多くの人材を輩出した蘭学塾としてよく知られています。
 緒方洪庵は日本における西洋医学の基礎を築いた人であり洋学の教育者として多大な功績をあげた人でもありますが、洪庵のこうした活躍の陰には、藩主黒田長溥(ながひろ)をはじめ福岡の人々との親しい交流があったのです。
 江戸時代、福岡藩は佐賀藩と一年交替で長崎警備を担当していました。そのため他藩よりは西洋の文物に触れる機会が多く、長溥の先代藩主の斉清(なりきよ)は、シーボルトについて医学や本草学を学び、通訳なしで会話できるほどであったと伝えられています。薩摩の島津から養子に入った長溥もまた、開明的な藩主で、幕末の福岡にさまざまな西洋技術を導入したり、藩の秀才を諸方に勉学に出しています。緒方洪庵の塾では十三人もの福岡の若者が医学を学び、帰郷後、病院を開業しています。洪庵は息子惟準(これよし)が長崎留学の折、彼らに後見人をお願いしています。当時、現在の呉服町辺りには、多くの医院や薬局が建ち並んでいました。
 緒方洪庵は大坂中之島の筑前蔵屋敷に出入りし、福岡藩の嘱託医(しょくたくい)になっており、参勤交代の途次、藩主が大坂に寄るたびにご機嫌伺いに出ていました。これは西洋の書物や、医療器具、薬などを入手する便宜を得るためと思われます。福沢諭吉の自伝『福翁自伝』には、洪庵先生が黒田長溥から拝借した新入手のオランダの科学書を見た塾生が、狂喜して三日二晩、不眠不休で筆写したことが書かれています。
 洪庵はまた、福岡の歌人大隈言道(ことみち)の門人としてすぐれた歌詠みでもありました。言道は洪庵の歌に大きな影響を与えましたが、師に先立って洪庵は文久三年(一八六三)に亡くなります。その一周忌に言道は、自分よりずっと若い五十三歳で亡くなった洪庵を追悼して歌を詠みました。

  桜花汝より老いし我が身さえまだあるものを先に朽らむ

二人の、しみじみとした心の通い合いを感じさせる一首です。


黒田長溥肖像写真(福岡市博物館所蔵)
【花見弁当】
 桜の森の満開の下で食べるお弁当は、さまざまな思い出がよみがえっていっそうおいしく感じられるものです。我が家にとって、家族でくりだした裏山での花見弁当がそれにあたります。
 父の一声で、あひるの家族のように一丸となって動く習性のあった我が家では、「お稲荷さんをもって花見にいこう!」という父の突然の思いつきに、大慌て。急遽、母は寿司飯を炊きはじめ、小学生の娘たちは油揚げやしいたけ、竹の子などを買いに走らされたものでした。
 家の中に立ち込める寿司酢の香りと、油揚げを煮る甘辛い匂いが、五臓六腑を刺激します。四人の子供たちがにぎると不恰好そのものですが、自分のものがどれよりもおいしそうに見えるから不思議でした。
 お弁当は、ふたを開けた瞬間に、作った人の心が一目でわかるものです。花見といいながら花をほとんど見なかったりしますが、今年はちょっと、横目で花見弁当の中身を覗き見してみるのも一興かもしれません。

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