牡丹の美しい季節となりました。紅や白、紫、淡紅、黄などの直径二〇センチほどもある大輪の花を咲かせる牡丹は、原産地中国では「花王」と称し、ことに宮廷で珍重されてきました。日本へ伝来したのは、奈良時代とも、平安時代初めに弘法大師空海が持ち帰ったともいわれています。
外来の花である牡丹は、まず博多にもたらされたと考えられますが、いずれの時にか、博多より紅色の牡丹を朝廷に奉り「染川」という名を賜りました。これが牡丹の品種に名が付けられた最初とされています。
牡丹は、日本では二十日草、深見草、名取草などともいわれます。私たちは「牡丹」といえばあの絢爛たる花を思い浮かべますが、牡丹は観賞用のほか根皮を乾燥させて、解熱、鎮痛、消炎、婦人病などの生薬としても用いられます。
江戸時代の寛文年間(一六六一 〜 一六七三)頃には、日本各地でこの花がもてはやされるようになりますが、とりわけ博多では、家々、戸々にこの花を愛玩し、新しい品種がつくられ、「艶麗なる名花」がたくさんできて全国に広がりました。京都で上梓された『牡丹名寄』という書物にも、博多でつくられた美しい花々が載せられています。
三代藩主黒田光之の時、京都より山村三右衛門という者を召し寄せ、花師として公園のことを担当させました。三右衛門は自宅の市小路町(大博通)の家園にも多くの花木を植えて楽しみましたが、就中、牡丹の栽培にくわしく、多くの花木を仕立てて世に広めました。光之は家臣の一人に「牡丹」という猿楽の地言をつくらせて、観世流の謡を趣味としていた三右衛門に与えたと伝えられています。これは息子の遊園が櫛田社に詣でた時、牡丹の精が姿を変えた女性と言葉を交わすという趣向の謡です。
また元禄頃、金屋小路(上呉服町)に住んでいた源七という者は、牡丹の接ぎ木を考案し、多くの名花を栽培して上方までも販売し、淺山行良という者は退役後、瓦町(祇園町)の屋敷を春芳園と名づけて、牡丹の奇種を栽培し、紅色の殊に麗しい一枝を、関白近衛基熙に贈り、和歌を賜りました。
世に咲くはあさやまことの紅の色てふ色はこの深見草
その後、時代の推移とともに牡丹の栽培は低調になりましたが、今日、筥崎宮の花庭園などでまた、大輪の麗しい牡丹が人々を魅了しています。
牡丹の花 |