2007年【如 月 号】
vol.76

しろかねのはり打つことき
   きりきりす幾夜はえなは
      すゝしかるらむ  節

 九州大学医学部構内、薬学研究院の、ブルーの窓のモダンな建物の前の駐車場の一角に、「長塚節逝去の地」の観光案内板があり、その側に御影石の四角い石柱に刻まれた長塚節の歌碑があります。長塚節は、貧農の生活を写実的に描いた、わが国最初の本格的な農村小説とされる『土』の作者としてよく知られています。
 節は茨城県の人で、若くして上京し正岡子規に師事しますが、子規が亡くなってからは伊藤左千夫と文学行動を共にし、『馬酔木』『アカネ』『アララギ』といった著名な歌誌の創刊に参加し、同人となり「写生の歌」を提唱するなど、おおいに活躍をしました。しかし三三歳の時、咽喉結核を病み、夏目漱石の紹介状をもって、明治四十五(一九一二)年四月、九州大学医学部の久保猪之吉博士の診察を受けることになりました。
 久保猪之吉はドイツに留学、近代鼻科学の権威グスタフ・キリャンの高弟となり、帰国後九州大学医学部の初代耳鼻咽喉科教授となりました。日本の耳鼻咽喉科を築いた一人として著名ですが、一方、正岡子規を中心とする『ホトトギス』の同人として夏目漱石とも親しく、句集『春潮集』、文集『外国船』などがあり、医学部構内に

   霧ふかき南独逸の朝の窓おぼろにうつれ故郷の山

の歌碑があります。
 二人の仲を取り持った夏目漱石は、小説『土』を東京朝日新聞に連載することを推薦してくれた人でもありました。しかし漱石の願いも空しく、病状は悪化の一途をたどり、大正四年二月八日、節は三五歳の若さでこの世を去りました。
 歌碑に刻まれた自筆の歌は、大正三年の六月から八月までの入院中に作られたもので、節が志向した「気品」と「冴え」に満ちています。死を目前にして、節は理想の歌境に到達したのでした。


長塚節歌碑

【柊】

 九州ではあまり馴染みがありませんが、節分の鬼よけとして、鰯の頭を柊の枝葉に刺し、戸口に提げる風習があります。燃して強烈な臭いを発する鰯の頭と、柊の刺のような葉で鬼の目を突いて退散させたという伝説から、このような風習が伝わったといわれます。
 柊は、固くてギザギザの葉をし、触ると「疼く(ひりひり痛む)」ことから「ひいらぎ」という名前がついたといわれます。この植物の面白いのは、五十年から八十年ほど経つと葉の刺が自然に消え、次第に丸みがかってくること。年をとって刺がなくなるので、人間のあり方に重ねて語られることも少なくありません。
 今では庭木や細工物として親しまれる常緑樹ですが、『古事記』などの古い書物にも登場するほど、日本人には緑の深い植物なのです。
 ちなみにクリスマスの柊はモチノキ科の西洋柊。節分に使う日本の柊はモクセイ科で、どちらも似たような形の刺があるのですが、植物としては全くの別物です。

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