2006年【師 走 号】
vol.74

 青柳種信は江戸時代後期の福岡藩を代表する学者です。

 種信は、昭和三年(一七六六)、足軽青柳勝種の子として城下地行(福岡市中央区地行)に生まれました。十五歳で家督を継ぎますが、幼い頃から学問を学んだ種信は、藩儒井土周徳の学僕となって、刻苦勉励し、文材の評を得ました。

 当初、漢学や中国史を学んだ種信でしたが、やがて国学を志すようになり、二十四歳の時、伊勢松坂に本居宣長を訪ねて入門します。二人が会ったのは生涯でこの一度きりでしたが、その後毎月二、三というペースで書簡のやり取りをし、様々な質問を宣長にしています。寛政六年(一七九四)に宗像沖ノ島に海防のため赴いた際の紀行文『瀛津島防人日記』は典雅な古文と万葉調の歌で語られ、宣長の教えの賜かと思われます。

 文化九年(一八一二)、伊能忠敬が全国測量の途次、筑前藩に入った際、当時、漁村を管轄する浦奉行配下の下級役人だった種信は、案内役として奔走し、忠敬に「筑前に種信あり」とその学識才能を高く評価されました。そして忠敬の依頼で『宗像宮略記』『後漢金印略考』を書き献呈しています。こうした功績によって種信は御右筆記録方に昇進しました。

 柳園と号した種信はまた、考古学の先駆者とも言うべき人で恰土・志摩両郡の考古遺物をあつかった『柳園古器略考』は、その綿密な実測、模様・文字までも模写したスケッチがあり、現在でもその価値が高く評価されています。

 筑前各地の歴史や地理を知るのに欠かせない書物が、『筑前国続風土記』、『筑前国続風土記附録』、『筑前国続風土記拾遺』の三部作です。『筑前国続風土記』は貝原益軒が編集しましたが、それにつぐ『附録』の編纂には種信は藩命により記録助手としてかかわり、それを個人で補ったのが『拾遺』です。
 種信は多くの書物を遺したばかりでなく、伊藤常足・二川相近等多くの弟子を育て、天保六年(一八三五)十二月十七日、七〇年の生涯を閉じました。墓は麁原山の西側、顕乗寺の墓地にあります。

青山種信肖像(福岡県立図書館所蔵)

【冬 至 】

   一年中で太陽が最も低くなり、夜が長くなるのが冬至。この日を境に、日は徐々にのびていきます。日本の風習では、この日にかぼちゃを食べて冬場の栄養不足を補い、柚子湯に入って無病息災を祈る行事が行われます。
 そもそも、家庭でかぼちゃを冬至に食べる習慣ができたのは江戸時代中期から。栄養価の損失が他の野菜に比べて少ないかぼちゃは、西洋野菜が日本に入るまでこの時期の貴重な栄養源でした。栄養成分の特徴は、なんといってもカロチンを多く含んでいること。カロチンは、体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし、感染症などに対する抵抗力をつけてくれます。「冬至にかぼちゃを食べると風邪をひかない」といわれるのはそのためなのです。
 冬至に柚子湯に入る習慣も有名です。湯につかって病を治す「湯治」にかけ、更に「柚」には「融通が利きますように」という願いが込められているのだそうです。 江戸の独特の感性が、いかにも日本らしい風習です。

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