君が為尽くす赤心(せきしん)今よりは 尚いやまさる武士の一念
福岡藩の家老で勤王派の指導者であった加等司書(ししょ)は、慶応元年(一八六五年)十月二十五日、藩命により天福寺で切腹した。歌はその時の辞世の歌。司書三十六歳の事であった。
世は幕末元治元年(一八六四年)。幕府は禁門の変で破れた長州を討つため第一次長州征伐令を出し、広島城内で軍議が開かれた。この時、藩主黒田長溥(ながひろ)の意を汲んだ加藤司書は討伐中止を主張して活躍、長州は軽い処分ですみ、討伐軍は解散した。翌年二月この功績で、司書は家老に取り立てられ、藩内の勤王派は勢いをました。
しかし幕府は長州処分を不服とし、五月には第二次征長令を出した。勤王派のシンボルである三条実美(さんじょうさねとみ)以下五人の公卿は、京より長州に落ちのびていたが、司書や月形洗蔵(つきがたせんぞう)らの働きで、大宰府に移座した。藩内は勤王派と左幕派が激しく対立し、佐幕派は勤王派の粛正を始めた。万一の時に備えて司書が造った犬鳴別館が、「藩主を山中に幽閉して、若君を福岡城に擁立し、筑前藩を勤王派の天下としようとするものである」とでっちあげられ、ついに藩主も勤王派粛正に動いた。
十月二十五日夜、司書は天福寺において七人の同志とともに切腹した。月形先蔵ら十四人は斬首、野村望東尼ら十六人は島流しに処せられ、一四〇人が逮捕された。「乙丑(いっちゅう)の獄」である。これによって福岡藩は維新後に活躍を期待された有能な人材を多く失い、その代償はあまりに大きかった。
皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべき
只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を君と親とに尽くすまで
天福寺跡(博多区奥の堂)に建つ「加藤司書公歌碑」に刻まれたもう一つの歌は、黒田節の三番の歌詞として歌われることもあり、加藤司書の燃える想いを今に伝えている。加藤司書の墓は聖福寺塔頭(たっちゅう)節心院にある。