旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
俳聖松尾芭蕉の生涯は、旅にあけ、旅に暮れたといえるでしょう。その生涯の最後は、元禄7年(1694)大阪御堂筋の旅宿花屋で迎えました。長崎へ向かう旅の途中であったといいます。芭蕉の枕元で書き留めた辞世の句を芭蕉の高弟向井去来から贈られた博多の僧であり俳人であった松月庵?川は、感激のあまり、同じ芭蕉の高弟志太野坡に「芭蕉翁之墓」と揮毫をしてもらい、ささやかな塚をたて「枯野塚」としました。芭蕉没後6年目のことでした。「奥の細道」や「野ざらし紀行」など、文芸生の高い俳句をちりばめた紀行文は今も多くの人の心をとらえて離しませんが、芭蕉には蕉門十哲といわれた優れた門人をはじめ、全国各地に多くの弟子がおり、時代が下っても芭蕉を慕う俳人は増えるばかりでした。寛政5年(1793)は蕉翁百年忌にあたり、諸所に芭蕉の碑が建てられました。福岡近辺では聖福寺に「鉄線塚」、久留米市に「翁塚」、小郡市に「胡蝶塚」、甘木市に「観音塚」などが俳人達によって建碑されました。そんな中で太宰府天満宮の「梅か香にのつと日の出る山路かな」の句碑はもっとも早く寛政元年につくられました。菖蒲池の畔にある「夢冢」は、芭蕉の百五十年忌に、五段麻斗丈の文と揮毫によって建てられたものです。枯野塚といい夢冢といい、芭蕉の辞世の句からとられたネーミングは、門人たちの芭蕉に寄せる深い想いを表象しています。枯野塚は、馬出五丁目にあり福岡県指定の史跡となっていますが、電柱に取り付けられた「枯野塚」→20mの標識がなければとても分からないような、狭い狭い路地の奥、民家と民家の間の僅かな空間にひっそりと佇んでいます。芭蕉に遅れること20年、正徳3年(1713)に亡くなった?川の墓が師の墓に寄り添っています。2人の墓には今も花や香が手向けられ、ゆかしい気持ちにさせられます。
枯野墓