2005年【神無月号】
vol.60

 石村コレクションによる展が、十月二十三日まで大濠公園の福岡市美術館で開催されています。先代が収集したさんの書画の中に、画面下に牛と牛飼い、上に馬の絵を描き「世の中ハ牛と思へハ憂けれ共 馬と思 行當餅」と書いた作品を見つけました。牛と憂し、馬と甘いをかけて、「世間というものは心の持ちようだよ」と説いているのですが、そのおいしいものの引き合いに出されているのが「行當餅」。
 行當餅は、明和二年(一七六五)に津田元顧・元貫父子が著した『石城志』に次のように書かれています。
 行當亨保十七子年(一七三二)より、須崎町彦市といふ者製す。甚だ甜美なり。
中島橋より東へ入る所、行當りの家なるが故に、行きあたり餅と云。 又、彦市餅とも云。
 昭和通りがまだなかった頃、中洲の方から博多川にかかる東中嶋橋をわたると博多橋口町の通りに出、その通りが須崎町の所で行き当たりになってしまいました。萬盛堂本社の前の昭和通りのちょうど真ん中くらいの所だと思われます。この辺りには江戸時代には町奉行の支配した町役所や奉行宅が置かれ、札の辻という藩の制札が立てられる場所もありました。
 さて行當餅は、黒田藩の家臣黒田又左衛門の家来小島喜兵衛の子孫小島彦市がはじめて製造販売したといわれています。当時の行當餅がどんなものだったか定かではありませんが、拵えてから二、三日は固くならず美味だったと伝えられています。『石城志』で「行當餅」には「」の字が当ててあるところにヒントがあるかもしれません。前項の「辻堂餅」は「辻堂」と表記しています。はコナモチのこと。夫れとは違う餅だということでしょう。ちなみに「」は「赤苗ノ嘉穀、赤キ栗」と辞書にあり「」は「ムシモチ・コメモチ」とあります。
明治十六年に何代目かの小島彦市が新に作った餅は黄粉餅でした。明治十八年の行當餅屋の広告には「菓子商並博多餅鶏卵素麺製造所彦市」とあり、また「御用博多餅」とも記されています。行當餅の正式な名前は博多餅だったのでしょうか。でも「行き当たり餅」という呼び名には、博多の人々のこの土地や美味なる餅に対する愛着がそこはかとなく感じられて、微笑ましい気持ちになります。そんな由緒ある地に萬盛堂があり、先代が愛したの作品にその名が見えるのも何かの縁でしょうか。


【秋の虫】

 祖母のうちに通っていた数十年前、廊下に置かれたテーブルの上には、りんりんと鳴く鈴虫の声が響いていました。幼い姉弟で耳をそばだて、その音を一生懸命聞いていたのを思い出します。
 私が物心をつく前から、祖母は鈴虫をペットとして飼っていました。夏の終わり頃からこの季節になると、毎日、十分なキュウリとナスを用意し、新鮮なお水と真っ黒で栄養満点の土を鈴虫たちに与えていました。そのせいか、彼らは毎年繁殖に成功し、私たちもすみかをのぞき込んでは、新しい命が生まれているのに興奮したものでした。
 いつだったか、あんまり真剣に虫かごをのぞきこんだ弟が、鼻を土に付けてしまったことがありました。それなのに、「この土、独特の匂いがするね」と、嬉しそうな表情を浮かべたのです。確かに、その土は今までに嗅いだことのない独特の甘さで私の鼻孔をも刺激しました。
たわいもない出来事ですが、時折その懐かしい匂いを思い出すと、秋の深まりを感じるのです。


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