2004年【如月号】
vol.40

 昨年の霜月号から本誌の表紙を飾っているのは、祝部至善の絵です。 「なつかしい」。といってもこんな光景を実際見たことがあるという人は、もうほとんどいないのかも知れませんが、とにかく懐かしい雰囲気漂う明治の博多の人々の姿が活写 されています。これから「萬盛堂歳時記」に繰り広げられる百年前の博多をお楽しみください。
 文明開化の新しい波が押し寄せる明治。乗合馬車が走り、人力車も行き交います。詰め襟にブーツ姿の警察官、ぼろぼろの制服に下駄 を履いたバンカラ学生、バイオリンを弾きつつ歌う艶歌師、独乙トンビに山高帽をかぶりたばこをふかす紳士。そんな人々にまじって江戸時代以来の六部さんや門付け、ふれ売りの声もあちこちから聞こえてきます。ざんぎり頭だけれど庶民はまだまだ和服姿、女性がほとんど日本髪なのも、「明治は遠くなりにけり」と実感させます。
 祝部至善(卯平)は明治十五年八月一日、古野利七・ハマの長男として、萬盛堂本店の川向こう中島町に生まれました。中島町は『筑前名所図会』を書いた奥村玉 蘭や洋画家児島善三郎などを輩出した町。卯平も小学校卒業後に町絵師の野方一得斎に日本画を、青年期に蒙古襲来の油絵で知られる矢田一嘯について洋画を習い、祝部家へも東京に絵画修行に行かせてもらうことを条件に入り婿したのです。
 祝部家は櫛田神社の社家の家柄で明治以後裁縫学校を経営していました。かくて大正七年サタと結婚した卯平は至善と改名し、翌年上京、新興大和絵運動を興した松岡映丘の弟子となりました。東京での画家としての活躍が約束されるほどまでになった至善でしたが、大正十二年の関東大震災によって帰郷することになります。
 博多に戻った至善は、現在博多町家ふるさと館がある場所にあった櫛田裁縫専攻学校の三代目の校長になります。その傍ら旧制福岡高等学校で九段の腕前を持つ弓道を教え、将棋・月琴・小唄・書道、南坊流の茶道など幅広い趣味をもち、羽子板を飾る「おきあげ」作りも教えることができるほどの腕前でした。昭和二十五年に発足した「博多を語る会」には博多人形師の小島与一、郷土史家の橋詰武生・三宅酒壺洞・波多江五兵衛等とともに参画し、古き良き博多を後世に伝えようとしました。
 至善の胸に長い間温められたふるさとへの愛情に満ちた絵は、長い間『西日本文化』(昭和三十七年創刊)の表紙をかざり、それに付されたコメントも古き良き博多へ私たちを誘います。その博覧強記、抜群の記憶力には驚くばかりです。博多弁丸出しで、天衣無縫、めっぽう酒に強い至善が、九十二歳の大往生を遂げたのは昭和四十九年六月十八日。至善さんは真に博多の旦那衆でありました。


祝部至善(『祝部至善画文集 明治博多往来図会』より)
【和風月名】
 古人のセンスでぴかいちと思うものの一つに、「和風月名」があります。十二の月に四季を織り込んで、それぞれに名前をつけたことです。この和風月名とは、飛鳥時代から明治改暦(明治六年一月一日)まで使われていた、太陽太陰暦での各月の名前をさしています。
 新暦のグレゴリオ暦では周知のとおり月を数字で表しますが、和風月名は太陽太陰暦での季節や行事に合わせて名前が付けられました。そういったことで、新暦に慣れている私たちには、一〜二ヶ月ほど季節感のずれたものになるのです。
 四季折々の表情が多様に表現されてきたように、それぞれのネーミングの由来も諸々生じてきました。例えば今月の如月は、暖かさに一度脱いだ着物を寒の戻りでさらに着直す月という意味での「着更衣」説と、暖かさに草木が更生する「生更ぎ」説があるのです。
 たんに二月というよりも、如月と呼んだ方がより季節感に富み、自然や文化を身近に味うことができるのではないでしょうか。

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