2004年【睦月号】
vol.39

  

 正月三日、筥崎宮で行われる玉せせりは年の初めにあたって、博多の一年を占う祭りです。
 陰陽(雄雌)二つの木製の玉は、お祓いを受けた後、温湯の中でその年の陰暦の月の数のタワシで洗い清められ、三合三勺の種油をそそがれ白紙で拭われます。この白紙は皮膚病に効き、福をもたらすものとして参詣者が奪い合ったといいます。
江戸中期の貝原益軒の『筑前国続風土記』にも、玉取の祭りでは油をぬった木珠を夷社(えびすしゃ)から本社まで「道すがら争ひとる事あり」とありますから、ずいぶん古くから行われていたことがわかります。
 この玉については、萬盛堂本店のある上洲崎町(須崎町)に住んでいた「原田某が、明応三年(一四九四)正月元旦、筥崎宮初詣の帰りに汐井浜に出たところ、遙か沖より光明閃々として一対の玉 が浮きよせて来た。これを拾い持ち帰ったところ不思議なことが続くので、五年後、一つは筥崎宮に、一つは櫛田神社に納めた」という話が伝えられています。
 また別の話ではそれより八〇数年後の天正年中、やはり「洲崎町にあった七軒の問屋が、呼子の商人から、海上で拾った二顆の玉 をもらい、一つを筥崎宮に奉納し、一つを博多の豪商神谷宗湛に譲ったところ、その夜宗湛に譲った玉 は光を放って鳴動し、宗湛はあわてて玉を問屋へ返した。問屋はこれを護衛して正月三日にその授受の典を挙げた」とも伝えられています。
 現在の玉せせりでは、径三〇センチほどの陽玉が、箱崎馬場町にある玉 取恵比寿神社から、大勢の裸の男達によって押し合いもみあいせせられ、筥崎宮まで運ばれます。最後に玉 を納めた町が、浜側なら大漁、陸側なら豊作、馬出ならば一年の繁盛を得ると言われています。
 正月のピンとはりつめた空気を破って、勇ましいかけ声、水しぶきが、箱崎界隈に躍動します。


筥崎宮 玉せせり(筥崎宮様より写真提供)
【しめなわ】
 正月に欠かせない飾り物のひとつに「しめなわ」があります。神棚や玄関の軒下に飾り、台所や水道の蛇口にぶら下げる日本独特の風習です。この時期の「しめなわ」は、一年に一度やってくる年神様のために家を清め、悪い気が入らないよう結界を張るという意味があります。
 昔の人にとって、注連縄がいかに大切だったのかというバロメーターの一つに、漢字表記の多さがあげられます。「尻久米縄」「注連縄」「標縄」「〆縄」「七五三縄」と色々あるのです。どう考えたって「しめなわ」とは読めない表記もありますが、それぞれの語源はなかなか面白いものです。
 もちろん注連縄は、正月だけに張るものではありません。しかしこの時期、わざわざ新調した「しめなわ」で年神様をお迎えするという心のあらわれに、日本文化の豊かさを見ることができるのです。
 飾りつけと取りはずしは十二月二十八・三十日と一月七日ごろ。心を形にあらわした風趣が、今年も目に映えます。

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