2002年【神無月号】
vol.24

 萬盛堂歳時記の表紙を毎回飾っているのは仙がいの絵。
 仙がいは日本最初の禅宗寺院聖福寺の一二三・一二五世住職という高僧であったが、それよりも「博多の仙がいさん」と人々に親しまれ、多くの博多の人々と交わり、軽妙酒脱な書画や数々の逸話を残している。仙がいの数々の逸話は、追々書いていくこととし、今回は仙がいの生い立ちについて簡単に述べておこう。
 仙がいは美濃国武儀(むぎ)郡武芸(むげ)村〈岐阜県武芸川町〉に生まれた。十一歳の時、美濃にある清泰寺(せいたいじ)の空印和尚(くういんおしょう)に見いだされ、出家得度(とくど)。義梵(ぎぼん)という名が与えられた。
 十九歳の時故郷を後にし、武蔵国永田(横浜市南区永田町)の東輝庵(とうきあん)の月船禅慧(げっせんぜんね)のもとに参じた。月船の指導は厳しく弟子達はよく怒鳴られたものだが、ある日掃除中、仙がいが箒(ほうき)で地面 に描いた月船が弟子を怒る絵を、月船に「臨済一喝(りんざいいっかつ)の図だな。うまいものだ。」と誉められたという、仙がいの画才や飄逸(ひょういつ)な人柄を物語るエピソードが伝えられている。
 三十二歳の時、師月船が亡くなり、鎌倉、江戸、松島、越後、近江など諸国行脚の旅に出た。その間にも勉学修行を積んだ仙がいは、ついに清泰寺の住職に推挙されたが、仙がいが貧農の出だという理由で反対され、また藩政を批判したこともあって、美濃国を出ることになった。
  
     傘(からかさ)をひろげてみれば天が下
         身は濡るるとも蓑(みの〈美濃〉)は頼まじ

 この歌に込められた仙がいの想いはどんなものだったのだろうか。
 天明七年(一七八七)冬、京都滞留中の仙がいは、月船門下の法兄で当時太宰府戒壇院にいた太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めもあり、聖福寺一二二世盤谷紹適(ばんこくしょうてき)の弟子となり博多へやって来た。仙がいが聖福寺一二三世を嗣いだのは寛政元年(一七八九)四十歳の時。以後、天保八年(一八三七)八十八歳で亡くなるまで仙がいは博多を離れる事はなかった。

聖福寺所蔵「仙がい和尚縄床図(せんがいおしょうじょうしょうず)」
【神無し月】
 暦では十月のことを神無月といいます。全国各地の氏神さまたちが、出雲の国に集うのだと信じられていたからです。日本全国、十月のこの一ヶ月間は「神無し月」となり、出雲の国だけは「神有り月」になりました。
 わざわざ、とでもいうのか、神さまはどうして一ヶ月も遠くへ行ってしまうのでしょう。この不在期間、いつも「困ったときの〜」にまかせていた人たちには、さぞかし不安に感じる日々が続いたのではないでしょうか。「十一月になったらちゃんと帰ってきてくれるだろうか。もしかして、あっちのほうが居心地良くて、帰ってこないのではないだろうか。」などと心配したりして…。なんだか大切な人を思う気持ちに似ていますね。
 そう考えると、神無月とは「あたりまえ」にいるはずのものが、本当は「あたりまえではない」ということを思い出させるための時間だったのかなと思えてきました。
 「日常」や「あたりまえ」に感謝したくなる秋の空想です。

Copyright(C) 2002 Ishimuramanseido Co.,Ltd. All rights reserved

           前頁歳時記TOP次頁