萬盛堂歳時記の表紙を毎回飾っているのは仙がいの絵。
仙がいは日本最初の禅宗寺院聖福寺の一二三・一二五世住職という高僧であったが、それよりも「博多の仙がいさん」と人々に親しまれ、多くの博多の人々と交わり、軽妙酒脱な書画や数々の逸話を残している。仙がいの数々の逸話は、追々書いていくこととし、今回は仙がいの生い立ちについて簡単に述べておこう。
仙がいは美濃国武儀(むぎ)郡武芸(むげ)村〈岐阜県武芸川町〉に生まれた。十一歳の時、美濃にある清泰寺(せいたいじ)の空印和尚(くういんおしょう)に見いだされ、出家得度(とくど)。義梵(ぎぼん)という名が与えられた。
十九歳の時故郷を後にし、武蔵国永田(横浜市南区永田町)の東輝庵(とうきあん)の月船禅慧(げっせんぜんね)のもとに参じた。月船の指導は厳しく弟子達はよく怒鳴られたものだが、ある日掃除中、仙がいが箒(ほうき)で地面
に描いた月船が弟子を怒る絵を、月船に「臨済一喝(りんざいいっかつ)の図だな。うまいものだ。」と誉められたという、仙がいの画才や飄逸(ひょういつ)な人柄を物語るエピソードが伝えられている。
三十二歳の時、師月船が亡くなり、鎌倉、江戸、松島、越後、近江など諸国行脚の旅に出た。その間にも勉学修行を積んだ仙がいは、ついに清泰寺の住職に推挙されたが、仙がいが貧農の出だという理由で反対され、また藩政を批判したこともあって、美濃国を出ることになった。
傘(からかさ)をひろげてみれば天が下
身は濡るるとも蓑(みの〈美濃〉)は頼まじ
この歌に込められた仙がいの想いはどんなものだったのだろうか。
天明七年(一七八七)冬、京都滞留中の仙がいは、月船門下の法兄で当時太宰府戒壇院にいた太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めもあり、聖福寺一二二世盤谷紹適(ばんこくしょうてき)の弟子となり博多へやって来た。仙がいが聖福寺一二三世を嗣いだのは寛政元年(一七八九)四十歳の時。以後、天保八年(一八三七)八十八歳で亡くなるまで仙がいは博多を離れる事はなかった。
聖福寺所蔵「仙がい和尚縄床図(せんがいおしょうじょうしょうず)」