2002年【文月号】
vol.21

 博多の夏はなんと言っても山笠。
 町毎の模様を染めぬいたハッピが博多の街を闊歩し、七月十五日夜明け方のクライマックスにむけて、博多ンモンの気持ちは高揚していく。
 博多の人にとってなくてはならない山笠の始まりについては、寛元元年(一二四三)、博多に疫病が流行った時、承天寺を開いた聖一国師が、弟子に舁かせた施餓鬼棚(せがきだな)に乗って、町中に聖水をまいてまわり疫病を退散したのがその起源とされ、山笠台および台上の四周を囲む「杉垣」などはその施餓鬼棚(せがきだな)の形式を伝えたものといわれている。古来博多山笠には、承天寺の守札をつけ、承天寺から出される大般若転読の木版刷りの守札を身につけ、災難除けとする風習があった。山笠の外題を承天寺からつけてもらうことや、なによりも、櫛田神社を出た「山」がまず承天寺に向かい、門前の清道をまわることは、山笠の起源を形として今に伝えるものといえよう。
 また『九州軍記』に、「永享四年(一四三二)六月十五日、櫛田の祇園社の祭りがあり、三社の神興が沖の浜へ御幸の後、十二双のつくりものをつくり、上には人形のようなものを据えて、これを舁いて歩行した。前代未聞の事なので、見物人が幾千万人も出て、とても賑わった」とある。当時博多を領した大内氏が京風文化を好んだことから、京都の祇園祭の山や鉾のような、背が高く華やかな山が博多にも出現したのではないだろうか。
 初めは京都の祇園祭同様優雅な博多祇園山笠が、今のように競争する「追い山」となったのは貞享四年(一六八七)の事と伝えられている。これには新婚夫婦の里帰りにまつわる土居町と竪町の若者の血気盛んな逸話が伝えられている。さらに、タイムを競う追い山と美しさを競う飾り山が分けられたのは、明治中期、電信柱ができて高い山の通 行ができなくなってから。
 時代によって祭りのやり方は変わっても、とにもかくにも、
 「山笠のあるケン 博多タイ!!」

奥村玉蘭『筑前名所図会』・山笠櫛田入りの図(福岡市博物館所蔵)
【いきなしぐさ】
 いきな江戸っ子の「江戸しぐさ」というものに焦点をあててみることにしました。
 「しぐさ」というと単純に動作やふりを想像しそうですが、ここでいう「しぐさ」とは、日常の心得、付き合いの仕方、心映えや心意気をも含んだものをさしています。研究家によると、江戸しぐさのチェック・ポイントは八八〇項目にものぼるそうです。
 江戸の人口は約八割が商人でしたが、商人が一流になるために最も必要だったのは気付きと気働きだとか。これが「見て分かることは言わない」「結界覚え」「人のしぐさを見て決めよ」といった名文句を生みました。
  しかし、いざこれを実践しようと思っても、なかなか簡単にはいきません。「たったこれだけのこと」と思いそうですが、シンプルゆえに奥も深いのです。しなやかでしたたかな商売原則とは、コミュニケーション・マナーそのものだったようです。こう考えると「江戸しぐさ」は現代人に大切なことを教えてくれるように思えるのです。

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