2002年【水無月号】
vol.20

 天正十年(一五八二)六月二日夜明け方、明智光秀は大兵を以て、織田信長の滞在する京都本能寺を攻め、信長を自刃に追い込んだ。いわゆる「本能寺の変」である。
 この時、博多の豪商神屋宗湛(かみやそうたん)・島井宗室(しまいそうしつ)も茶会に招かれ、ともに本能寺にあった。
 六月一日の夜、宗湛の夢に大黒さまが現れ、「大変なことがおこる。すぐ京を離れよ」と告げられた。驚いた宗湛は、取る物もとりあえず京をあとにした。その直後、宗湛は明智光秀謀反の報せを受けるのである。無事博多に帰った宗湛は、「大黒さまのおかげで命拾いした」と深く感謝し、一体の大黒さまをつくって本興寺(ほんこうじ)に寄進したと伝えられている。
 この大黒さまは、等身大の朝鮮焼の陶器の尊像で、博多焼よりも古い貴重なものである。俵を踏まえ、赤っぽい服を着、満面笑みのお顔や打ち出の小槌は黒光りしている。宗湛を危急から救ったことから「足止めの大黒さん」ともいわれ、四百年間、商売繁盛など、博多の人々の様々な祈願にこたえてきた。
 毎月十日、今も蓮池(中呉服町)本興寺には、大黒さまに祈願を捧げる人が絶えない。ことに一月十日の大祈願祭(大黒様洗い)には、若い僧侶の水行の後、各家におまつりしている大黒さまを洗い、参詣者に黒豆ご飯がふるまわれる。
 ちなみに島井宗室は、明智軍おしよせる本能寺から、弘法大師筆の千字文をもって、命からがら逃げ帰ったという。

本興寺の大黒さま
【歌舞伎の始まり】
 歌舞伎はそもそも「かぶき踊り」という踊りから始まったことになっていますが、その祖といわれる出雲の阿国(おくに)が、どんな踊りを踊っていたのか、ご存知の方は多くはないでしょう。
資料によると、阿国は、ザンバラ頭に脇差しを差したかぶき者の踊りや、街ゆく人々の人間描写、赤ちゃんのフリをした「ややこ踊り」などをしたとあります。女の人が人前でそんなことをするのですから、京の人の目には、まさしく派手な踊りに映ったことでしょう。
その後、アッという間に全国に普及した女歌舞伎ですが、一六二九年には風紀を乱すという理由で禁止されます。次に現れたのは美少年ばかりの若衆歌舞伎。しかし、これはこれで男色趣味に走ってしまったために禁止されてしまいます。そうして成り立った歌舞伎が、現在のように成人男性のみで行う野郎歌舞伎というわけです。伝統芸能は、伝統ゆえに一日にしてならず。紆余曲折した成り立ちに触れてみるのも、面白い見方ではないでしょうか。

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