2001年【文月号】
vol.9

 大河ドラマ北条時宗では、北大路欣也演じる博多綱首(ごうしゅ)謝国明(しゃこくめい)が、ドラマの展開に重要な役どころを果たしている。その謝国明が心からの尊崇を捧げたのが聖一国師である。
 聖一国師は名を円爾弁円(えんにべんねん)といい、駿河国安倍郡藁科(静岡市)の生まれ。諸国で仏道修行に励んだ後、宋(中国)留学の志を抱き、謝国明の援助を得て念願の入宋を果 たしたのは、博多へ来てから二年後の嘉禎元年(一二三五)のことだった。六年後の仁治二年(一二四一)七月、円爾は多くの典籍を携え博多に帰ってきた。謝国明は私財をなげうって承天寺を建立し、円爾は同寺の開山となった。
 円爾が宗教・学問などの面で果たした役割は計り知れないが、私達の身近なところでも、意外なものの始源が聖一国師と関係づけて語られている。
 宋で仕入れた酒皮饅頭の製法を、茶店の主人栗波吉右衛門に教えたのが、我が国の饅頭の始まりだと伝え、博多織は聖一国師に従って宋へ渡った満田弥三右衛門(みつだやぞうえもん)が唐織の技法を学んで帰り、改良に改良を加えてあみ出したものだと伝えられている。ちなみに独特の柄は、円爾から教えてもらって仏具の独鈷と華皿をデザインしたものという。また満田弥三右衛門は素麺、朱焼、麝香丸などの製法も取得して帰ったといい、承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」の大きな石碑も建っている。
 さらに、博多っこの血を湧かせる「博多祗園山笠」は「寛元元年(一二四三)、博多に疫病が流行った時、聖一国師が弟子に舁かせた施餓鬼棚(せがきだな)に乗り、町中に聖水をまいてまわり、疫病を退散させた。」という逸話をその起源としている。
 帰国後の円爾の在博は足かけ三年足らずだったが、謝国明との交流はその後も続き、博多の文化のみならず、わが国対外文化交渉史に大きな足跡を残した。       

博多祗園山笠巡行図屏風(福岡市博物館蔵)
【タナバタ】
 天の川の両岸で、想いをよせあう彦星と織姫。一生に一度だけの逢瀬、七夕の夜。そんな恋物語が来日する以前、日本には、オリジナルのタナバタ祭りがありました。
 宮中儀礼の「タナバタ」は、「祓い清め」がメインとなる祀り事。この時季、猛威をふるう自然災害や、もろもろの倦怠感。そんなケガレを、祓い清めようというものです。
 水辺に棚をこさえ、衣を織る巫女が、神様を迎える。楽しく一夜を過ごした神様に、目に見えぬ ケガレを持ち帰ってもらおう、という魂胆なのです。棚をこさえ、機織姫(はたおりひめ)が祈るので「タナバタ」。奈良時代、これに中国の伝説が合体し、今の七夕祭りとなりました。
 こんな事を知った今年の七夕は、楽しみも二倍。雨降りのときは、「あぁ、タナバタ雨が、あたしのケガレを流してくれる」とポジティブに。晴れたら晴れたで、「彦星と織姫が、すてきな一夜を過ごせますように…」と、イマジネーション、ムクムク。都合の良い想いは、楽しい夜の友なのです。

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