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【梅 花】 |
天平二年(七三〇)正月十三日、新暦では二月八日。太宰府では「梅花の宴」が催されていました。当時、太宰府の長官であった大伴旅人が主催した、梅を題詠にした歌会と酒宴です。旅人の館に集まったのは三十二人。北は壱岐・対馬の離島から、南は薩摩・大隅から。盛大な宴の様子は、当時九国三島を統括していた「遠の朝廷」ならではのものだったようです。
万葉人にとって梅は、春の訪れを知らせる心の景物でした。万葉によまれた梅の歌は、実に百十九首にのぼります。これは当時中国から渡来したばかりの花を珍しがったこともあるでしょうが、なによりも、ウメが日本人好みのする花だったからだと思われます。
その枝ぶりに見合わず、ほっこり膨らむ蕾。そこはかとなく香るつつましさ。旅人もきっと、そんな梅咲く春を喜んで、この宴の題詠にとりあげたのではと想像するのです。
ちなみにこの当時の梅は全て白梅。紅梅は平安時代になってからポピュラーになったといわれます。