2002年【弥生号】
vol.17

 福岡の名門高校として知られる修猷館(しゅうゆうかん)高校は、天明四年(一七八四)二月、福岡藩の東学問所としての城の東赤坂門付近に開校した藩校修猷館を母体としている。この時同時に、唐人町に開校した西学問所を甘棠館(かんとうかん)といい、その館長を務めたのが亀井南冥(なんめい)である。
 南冥は、民間から登用された古学派(徂徠派)の儒医で、世に「儒侠」と称せられた。豪放磊落な性格で、学生に対しては自由放任、個性を尊重し、長所発揮を旨とした。講義が一段落ついた時などは、飲み会を開いたり、翌日は休講にしてハイキングに出かけたり、随分すすんだ師弟関係をもっていたものだ。学生数では、朱子学(しゅしがく)を教えた修猷館にはるかに及ばなかったが、武士に限らず、農家・商家の子弟も学び、全国各地から集まった学生の中には、帰国後藩政改革をリードした者も多い。南冥の実践的な学問、社会に働きかける学風が然らしめたものであろう。 甘棠館が開校した四日後、志賀島で金印が発見された。今、国宝中の国宝として博多の人々の誇りともなっているこの金印が「後漢の光武帝から賜った金印である」と最初に考証した人こそ亀井南冥なのである。『金印弁』に綴られた南冥の博識には、誰もが驚嘆するが、南冥はまた、この金印の価値を力説しその保護にも身を挺した。
 こうした活躍がかえって妬まれ、あわせて松平定信が朱子学以外の学問を禁じた「寛政異学の禁」によって、南冥の立場は苦しいものとなった。
 南冥が撰した「太宰府碑」の碑文が体制批判的だとされたことなどもあって、寛政四年(一七九二)退職謹慎の身となり、同十年火災にあった甘棠館はそのまま廃校となった。
 文化十一年(一八一四)三月三日、焼け落ちた自宅の中に七十二歳の動かぬ 南冥の姿があった。
 今、南冥は、地行二丁目の浄満寺にたくさんの家族といっしょに眠っている。


亀井南冥肖像(1743〜1814)(能古博物館所蔵)
【長 屋】
 性別、年齢、国籍を越えた他人同士が、家やマンションを借りて、共同生活をいとなむルームシェア。欧米では一般 的なこのシステムが、最近、都心でブームになっています。しかしこれ、一昔前の長屋の生活とどこか似ていると思いませんか。
 長屋もルームシェアも基本的には自治共同体。薄い壁一枚の仕切りに、何もかもが筒抜けで開けっぴろげの「本音の暮らし」。「節約・安心・楽しい」が魅力の、都会ならではの生活です。お互いの個性を認め合い、自由とプライバシーをリスペクトすることが、この生活のポイント。最低限以外のルールを作らず、オープンに触れ合いながら楽しくやっていくことも大切だったよう。
 「九尺二間」を自己の才覚で守っているという自負は、長屋の生活に活力を充満させることにもなっていたそうです。「なぜ今ルームシェア?」の答えって、そう考えると、そんなに難しくないように思えてくるのです。

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