2005年【如月号】
vol.52

 御笠川の下流、石堂川にかかる石堂橋と石堂大橋の中間地点、大学通 の入口にある梅津太鼓店の傍らに小さなお堂があります。「石堂地蔵遺跡」と書かれた石碑があり、真新しいお堂の中には、両手で宝珠を捧げ持った可愛らしい石のお地蔵様が祀られ、苅萱(かるかや)地蔵とも子授け地蔵ともいわれています。このお地蔵様には、はるばる高野山まで父を訪ねた石童丸の悲話の前日譚が伝えられています。石童丸の父は加藤左衛門尉繁氏(さえもんのじょうしげうじ)といい、その父は加藤左衛門尉繁昌(しげまさ)といいました。繁昌は弓矢の達人で、崇徳(すとく)天皇の時代(一一二三〜一一四一)博多の守護職を努め、太宰府を守る刈萱の関の関守も兼ねていました。
 四十歳を過ぎても世継ぎに恵まれない繁昌は、香椎宮に参籠し、「どうか子供をお授け下さい」と一心に祈願をしたところ、満願の暁に白衣の神人が枕辺りに現れ、「箱崎の松原の西の橋ぎわ、石堂口の川のほとりに、玉 のように丸い石がある。これを妻に与えよ。必ず男の子が生まれるであろう」と告げました。繁昌が石堂口へ来ると、古い石の地蔵尊がおられ、その左手にお告げの通 り丸い石がのっていました。手に取ると、あたたかく人の肌のようで、あたりに光明を放っていました。
 その石を押し戴いた繁昌は駒を早めて館に帰り、妻に与えたところ、妻はほどなく身ごもり、翌長承元年(一一三二)正月二十四日の暁、家中に芳香が漂い、玉 のような男の子が生まれました。この子は、霊石を授かった所に因んで石堂丸と名付けられました。石堂丸は成長して加藤左衛門尉繁氏と名乗り、父の跡を継ぎ刈萱の関守をつとめ、後に高野山に登り出家して「刈萱道心(かるかやどうしん)」と言いました。
 高野聖(ごうやひじり)が高野山信仰を広めるため、全国にもちまわった「刈萱道心石堂丸」の有名な悲話は、この繁氏とその子石堂丸(石童丸)のお話しなのです。


石堂地蔵
【初庚申】
 路傍で「庚申」と書いてある石標に出くわしたことはないでしょうか。風景に溶け込んでいるので気づく方も少ないかもしれません。実はこの石標、古き良き時代の生活週間に息づいた知恵の産物なのです。
 石標に刻まれた文字は「こうしん」と読みます。六十日に一度まわってくる申の日のうち、男たちが集まって夜更けまでおしゃべりする講の目印です。一昔前までは「庚申の夜には、眠っている間に体内の三尺(さんし)虫が罪過を天帝に告げる」といい、それを徹夜で避ける風習があちこちで見られました。儀式的なこともするのですが、夜を徹した話に花を咲かせる楽しさが、いつしか習慣として定着していったのではないかと考えられています。
 最近は、ほとんどの講が夜のうちに解散しますが、娯楽の少なかった当時では、色んな悩み事を相談し、仲間と苦楽を共有し合う大切な場だったのではと想像できます。一年の最初の庚申の日を、とくに「初庚申」といいます。一年の最初の庚申の日を、とくに「初庚申」といいます。今年は二月五日です。

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