2004年【神無月号】
vol.48

 シーボルトをして「東洋のアリストテレス」と言わしめた貝原益軒は、福岡が誇る儒学者であり、博物学者であり、庶民教育家。まさにマルチな学者でした。『大和本草』など生涯に九八部二四七巻もの著作を成し、その学問は今の世にも輝きを失いません。
 益軒は、福岡藩の祐筆役貝原寛斎の五男として寛永七年(一六三〇)福岡城内東邸で生まれました。幼い頃より、父や兄に漢文や「四書」、医学を学び、十九歳で二代藩主黒田忠之の御納戸御召料として仕えました。一時は浪人生活も余儀なくされますが、三代藩主光之に召し抱えられた翌春には、数年間にわたる藩費京都遊学というチャンスを得、当時一流の学者と交流し見聞を広めたり、後に『農業全書』を著す宮崎安貞とも出会い、一生の縁を結びます。
 帰国後の益軒は文治主義政策を推し進める光之のブレーンとして活躍し、藩主や家老たちに学問を講じるほか、黒だけの由緒を明らかにする『黒田家譜』、一五年の歳月をかけて完成させた地理・歴史書『筑前国続風土記』を著しています。
 八五という長寿を全うした益軒の『養生訓』は説得力十分で、現在にも通 用するものです。まず冒頭で「人は天地と父母の恩で生まれてくるのだから身勝手なことをしてはいけない」と諭し、食や生活態度による健康維持の方法や過度のストレスが内臓器官に悪影響を及ぼすなど、昨今の健康番組でも取り上げられるような内容が満載です。
 晩年の益軒は二二歳年下の妻東軒を伴って旅をしたり、旅で見聞した地方の景観美や産業などを解りやすく流麗な文章で綴った紀行文を書いたり、庶民道徳を説く多くの教訓書を著しています。世に有名な「女大学」は『和俗童子訓』中の親が心がけるべき女子教訓論「女子ニ教ウル法」を後世の人が三分の一に圧縮し、嫁の義務として箇条書きにしたもので、そこには益軒のもつ思想も人間性も見ることができません。益軒自身は妻との合作「愛敬」の書に見られるように、愛と敬いに溢れた人でした。


福岡市中央区今川の金龍寺にある貝原益軒像(この像の後ろに益軒夫妻の墓がある)  
【夜長の枕】
 枕といえば、最近こそあまり耳にしなくなりましたが、「使う人の魂が宿る」とお聞きになったことはあるでしょうか。昔は、枕には旅に出た人の魂が宿るといって留守宅では大事にされましたし、『万葉集』の恋歌には、恋人同士の魂を夢の中で合わせるのだと詠われた事もありました。
 これは、語源が「マ・クラ(真・座)」とする説からも想像できます。古代では、様々な感覚が集中する頭は神聖な場所とされ、それをのせる枕も神聖なものだと信じられていたのです。「マ」は尊称を、「クラ」は古代語で神様の降りる場所をあらわしています。
 しかし、現代では、個人の信じた枕信仰は失われ、その影を見ることもありません。枕に対する興味といえば、安眠と健康を求める志向ばかりです。
 人は人生の三分の一を寝て過ごします。大事な睡眠をサポートしてくれる枕は、古代ではもっと深い意味を持っていた…。こんなことに思いを馳せるのも、秋の夜長の一興かもしれません。

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