2004年【水無月号】
vol.44

萬盛堂歳時記の三十六号までの表紙を飾っていたせんがい和尚は、名前の上にしばしば「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)と書きました。「扶桑(ふそう)」とは日本国のこと。その最初の禅宗寺院の住職であるという自負が、和尚の墨跡ににじみ出ています。
 博多区御供所町(ごくしょまち)にある聖福寺(しょうふくじ)。その山門には、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の堂々たる勅額(ちょくがく)「扶桑最初禅窟」が掲げられています。この寺を開いたのは栄西禅師(ようさいぜんし)。臨済宗(りんざいしゅう)の開祖であり、日本の茶祖とも称えられる人です。
 栄西は源平の争乱期に二度にわたり渡栄し、「佛心宗」すなわち「禅」を体得して帰国し、建久六年(一一九五)、時の将軍源頼朝(みなもとのよりとも)に願い出て頼朝を開基とし、宋人百堂の跡地に丈六の釈迦、弥陀、弥勒の三尊像を安置する一寺を創建しました。
 大博通りの奧の道バス停付近に「聖福寺古絵図」の陶板レリーフがあります。松原が東にのび、蓮池や承天寺(じょうてんじ)と隣接し、聖福寺や寺中町(じちゅうまち)が描かれています。ちなみに「蓮池」や「西門町(さいもんまち)」は、聖福寺寺中町の地名です。
 創建当時方八町、三八の塔頭(たっちゅう)があった境内も、度々の兵火と太閤町割により、往時の四分の一になったといいます。しかし尚、せんがい和尚が隠居した虚白院(きょはくいん)、一朝軒(いっちょうけん)尺八[虚無僧(こむそう)]の西光寺(さいこうじ)、幕末筑前勤王派加藤司書(かとうししょ)の墓がある節信院(せつしんいん)、我が国解剖の先駆者百武万里(ひゃくたけばんり)の墓がある順心庵、千利休(せんのりきゅう)直伝の南方流(なんぼうりゅう)の茶の湯が伝えられる円覚寺など、多くの塔頭があり、本寺の伽藍(がらん)は禅宗寺院としての伽藍形式がよくのこされており国の史跡に指定されています。
 勅使門と山門の間の無染池に亀がのんびりと寝そべり、時折小鳥のさえずりも聞こえる境内。かすかに車の往来の音を聞きながらも、ここがビルの谷間であることを忘れさせる、緑の空間です。


聖福寺(しょうふくじ)
【一絃の琴】
 博多出身の那珂太郎さんの詩碑が、沼津の大中寺に建てられたということで、お祝いの会に参加してきました。そこで初めて耳にしたのが一絃琴の音色です。指に弾かれ、ゆるやかに舞う音に、心の奥を擽られるような深い暖かみを覚えてきました。
 一絃琴は、一枚の板の上に一本の絃を張っただけの、極めて素朴な楽器です。平安初期、在原行平が須磨に流されたときに奏したことに由来し、須磨琴と呼ばれるようになりました。江戸時代には文人墨客の間に愛好されましたが、戦後は西洋音楽などに押され、演奏できる人もほとんどいなくなってしまったといわれています。
 会で演奏してくださったのは、那珂さんの奥さまでした。琴の音は派手ではないのですが、紡ぎ出される繊細な響き、淡々とした味わいが、聞く人の心をとらえては離してはくれませんでした。
 この素朴な楽器は、弾き手のすべてを現すのだと思いました。奥さまの琴の音は、今も印象深く耳の奧に響いてきます。

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